はじめに
かつて浅虫温泉は、「東北の熱海」とか「青森の奥座敷」と言われたが、時代の流れの中で、現在は温泉場としての活気のある姿を見ることはできない。
かつての賑わいを取り戻すために、さまざまな努力が行われてきましたが、浅虫旅館組合に加盟し、営業が行われている旅館数は10館にとどまり、1991年の24館から半減し、飲食店も約50軒から約15軒に減少しています。
「浅虫温泉の歴史は古く、平安時代に慈覚大師(円仁)により発見された温泉は、布を織る麻を蒸すためだけに使われ、1190年に訪れた円光大師(法然)が、傷ついた鹿が湯浴みするのを見て村民に入浴を進め、それ以来人々に利用されるようになりました。温泉名も麻を蒸すことに由来し、「麻蒸」が転じて「浅虫」になったといわれています。」(浅虫温泉旅館組合ホームページ)
また、天明8年(1788年)に訪れた菅江真澄は、貝を採る娘の歌声を記録しています。 さらに、弘前藩主もたびたび足を運び、ペリーが浦賀に来た嘉永2年(1849年)の4年前、江戸土産として発行された番付「諸国温泉効能鑑」にも載っており、広く知られていました。
明治24年(1891年)の日本鉄道奥州線の開業、官設奥羽鉄道の開通と弘前への第八師団設置で、大正13年(1924年)には、小湊村出身でシカゴ大学を卒業した畑井新喜司東北帝国大学教授により、臨海実験所と付属水族館が開所され、浅虫温泉は賑わいました。
昭和38年(1963年)5月20日、全国植樹祭に来県した昭和天皇は、研究の師であった畑井教授を偲んで歌を残しています。
「白海鼠(しろなまこ)見つつ思ふありし日の畑井博士に聞きにしことを」
バブル景気の終焉以降、浅虫温泉の利用者は減少し、平成3年(1991年)の宿泊客数29万5千人が平成28年(2016年)には16万6千人となった。
浅虫温泉活性化の努力は、いろいろと続けられてきましたが、改めて、活気あった時代の絵葉書を見て、今後のあり方を探ってはと思い開催しました。