故・中村哲医師の志がアフガンで続く写真展開催のごあいさつ
2年前の2019年12月4日、中村哲医師が突然に銃撃され亡くなったことは、あまりにも衝撃が大きく言葉も出ませんでした。
しかし、中村哲医師の志は、現地アフガニスタンの人々やペシャワール会に結集する日本の人々により引き継がれ活動が継続されました。また、昨年8月にタリバンが政権に復帰し先進国の経済封鎖が続く中でも、中村哲医師の志は引き継がれ、現地ペシャワール会(PMS)の活動は続いています。
2つもの大ピンチを乗り越え、干ばつが拡大する中で活動を続ける現地ペシャワールの活動を知っていただくため、写真展を開催しました。
中村哲医師は、1946年((昭和21年)に生まれ、九州大学医学部を卒業して医者となり、1982年(昭和57年)に、当時JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)から、パキスタンペシャワール・ミッション病院からの医師要請を受け、1984年(昭和59年)4月に赴任し、以来、35年に亘り、パキスタンやアフカニスタントの僻地で活動を続けてきました。
この間、パキスタン北西辺境州でのらい病(ハンセン病)の治療にあたり、日本のペシャワール会の支援のもと、1986年(昭和61年)からはアフガニスタンで難民のための医療チーム設立、東部山岳地帯に3つの診療所をつくり治療にあたり、1998年(平成10年)には、ペシャワールに基地病院PMS(ペシャワール会医療サービス)を建設、らい病診察とアフガニスタン山岳部無医地区診療の拠点としました。
また、2000年(平成10年)から始まったアフガニスタンの大旱魃(かんばつ)では、1400本以上の井戸を掘り、全長13キロメートルの用水路を建設しました。
中東やアフガニスタンは、米ソの対立の中、不安定な政治状況が続き、ソ連のアフガニスタン進行と撤退、旧イスラム党政権、そしてタリバン政権の誕生と崩壊、さらに、イラン・イラク戦争と続く中で、多くの国際的支援団体が撤退する中、「宗教や人種」のこだわらず、人道主義に徹した中村医師の活動は、住民に受け入れられ、活動が続けられたことは驚異に与えします。
衆議院のテロ対策特別委員会で、証言に立った中村哲医師は「自衛隊の派遣は有害無益」と証言し、現地で築いた信頼関係が崩れる」と訴えた。しかし、政府はテロ特措法を成立させ自衛隊を派遣し、米軍などの艦船に給油を行った。その結果、診療に当たる車に表示されていた「日の丸」を消さざるを得なかったという。
35年間に渡り、パキスタンとアフガニスタンで医師として治療にあたりながら、アメリカでの同時多発テロ発生後、デロ撲滅を理由に、アフガニスタン国民が攻撃の対象とされ多くが難民となり、さらに大干ばつが追い打ちをかけました。こうした中、「平和に武器はいらない」「きれいな水と食料を、治療は後でする」と命の大切さを訴え、井戸を掘り、用水路建設を進め、緑の大地を復活させる人道支援を続けていた中村哲医師が、2019年12月4日に銃撃を受け凶弾に倒れ亡くなりました。
しかし、志し半ばで倒れた中村哲医師の意志が、アフガンや日本で引き継がれ、米軍撤退とタリバン政権の復帰、大干ばつ拡大という中でも事業が継続されています。
この度、中村医師の活動を支えてきた「ペシャワール会」の協力を頂き、「故・中村哲医師の志がアフガンで続く写真展」を開催できました。ご来場頂いたことに心から感謝申しあげます。