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展示風景1

展示風景2

展示風景3

 

油川町は昭和十四年六月に青森市と合併しているが、その歴史は青森市より古く、鎌倉時代にはすでに開拓されていたとされるが、証拠とされる古文書はないという。古文書に初めて油川の地名が記録されるのは、天文五年(一五三六年)の北畠氏による「津軽郡中名字」である。

また、油川の地名については、村中に油川という河があり、常に赤色を帯び油を漂して居るので河名となり、この河名が村名になったと言われている。

天正十三年(一五八五年)三月に、大浦為信が南部領であった油川城を攻め城主奥瀬善九郎を追放して以来津軽領となった。

油川は、津軽藩二代藩主津軽信枚が、江戸への海路を確保するため家臣の森山弥七郎に青森開港を命じるまで、本州北端の海陸交通の要衝であり、青森発祥の地とも言える街である。

今回は、油川のこうした歴史をすべて語ることは不可能で、主として明治以後の青森市発展の歴史に、大きく貢献し、間もなく青森開港四百年を迎えるにあたり、写真が残っている出来事を取り上げ、風化させず語り継ぎ、青森市建設に役立たせていただくことを願い開催した。

第一は、油川に何故か青森港を開港し、油川港を衰退に追い込んだ森山弥七郎の供養碑が建立され保存されている。碑には「元祖森山弥七郎」「寛文六(一六六六年)丙午年二月三日」と刻まれており、亡くなった年とすると年齢は九十四歳で、あまりの長寿に異論もあり、開港した青森港に供養碑がなく鎖港した油川にあるのも皮肉な話である。

第二は、大正五年(一九一六年)に神戸のラザー商会から派遣されたイタリア人ファブリーが建設した住宅と大規模イワシ油漬缶詰工場は、青森の産業に大きな刺激を与え青森市内で次々と近代的缶詰工場がつくられた。また、イギリスやフランスなどへ缶詰の輸出が行われるなど大きな影響を与えた。

さらに、油川飛行場になる土地に牧場や農場をつくりトマト等の栽培を行った。レンガ造りの家に住み二頭立ての馬車に乗って走る姿は、油川の人たちの生活や文化にも大きな影響を与えた。

しかし、イタリア人ファブリーは、新工場が完成した大正七年七月に急逝し、後任が経営にあたったが経営困難となり廃業し、人手に渡り残された住宅は「イタリア館」と呼ばれ親しまれたが、昨年取り壊された。

第三は、油川に昭和八年(一九三七年)に飛行場がつくられ、昭和十二年に青森、札幌、仙台、東京、福岡、台湾、北京などへの定期航路が開設されたことであった。

しかし、運行から三年で定期航路は廃止され、昭和十五年からは陸軍の飛行場となり、敗戦とともに飛行場は廃止され、跡地は海外引揚者の開拓地、住宅地、中学校などへと変わり、再び利用されることはなく、油川町民の期待に応えることが出来なかった。

そして、昭和六十二年(一九八七年)七月に新青森空港が青森市大谷に開港し、空の玄関口となった。

第四は、現在では東津軽郡で唯一の造り酒屋で、明治十一年(一八七八年)創業の西田酒造店である。

明治に入り北海道開拓がはじまり、青函の定期航路が開設されるとともに、青森市には十を超える造酒屋がありましたが、全国的な物流が始まると次々と廃業に追い込まれたが、その中で生き残りいまでは、醸造の「田酒」「喜久泉」は、全国新酒鑑評会で何度も金賞に輝き全国に知られた銘酒である。創業から百四十二年の歴史を誇り、青森の名を全国に広めた造り酒屋である。